2023年1月の平塚のコンサートを終えた後のことです。
最先端のがん治療があることを知り、祖父を説得することにしました。
しかし、祖父からは、
「高いんだろ?そこまで無理しなくて良い。完全に治ることはないと思うしな。水晶の気持ちだけで十分だよ」
という返事が返ってきました。
「何言ってんだよ。じいちゃんには今までお世話になってきたし、治療費がいくらでも高くない。完全には治らなくても、少しでも長く生きてもらいたい。無駄にはならないよ」
そう説得しますが、受け入れてはもらえません。
2023年の3月に病院の医師とzoomで相談したところ、
「今なら治療は受けられますし、より良い形で延命できる可能性があります」
と言っていただけました。
とはいえ、ぼくは内心かなり焦っていました。「急がなきゃ!」と思いながら、治療費に協力してくださる方を頼っていきました。事情を理解していただき、返済していける目処も立ちました。
まだ祖父とは一緒に散歩をしたりお風呂屋さんに行ったりできたので、その度に説得をしていました。「これだけは、人生で譲れない!」と思えたのは初めてでした。母にも一緒に祖父を説得してほしいと頼み込んでいたのです。
ただ、1つ違和感があったのは、母がぼくと一緒になって祖父を説得してくれなかったことです。でも、それには理由がありました。
祖父が母に、
「水晶から説得されてるんだけど、諦めるように言ってくれ」
と言っていたからです。
これには「お母ちゃんの意思はどうなの!?」と感情をぶつけてしまうほど納得がいきませんでしたが、母も板挟みで辛い状況だったのだと思います。そんな中、祖父を約3ヶ月説得し続けました。
「じいちゃん、俺はできないことは口にしないよ。治療費も払えると思ってるから言ってるんだよ!無理してるとかじゃなくて、じいちゃんに治療を受けてもらいたいんだよ!」
すると、祖父も根負けしてくれたのか、
「わかった。治療を受けようか」
と言ってくれたのです。
「良かった!じいちゃんがやっとわかってくれた!これで元気になってくれる!」
そう思い、診察を受けたところ、祖父の膵臓がんはこの間に進行し、手遅れの状態になっていたのです。
「じいちゃん、ごめん。俺の説得が足りなかった・・・」
その頃もまだ祖父は1円パチンコに行けるほど身体は動いていました。せめてがんの進行が遅くなるよう、身体に良いものを食べてもらうように勧めていました。
しかし、時が経つにつれて祖父の身体は弱っていきます。
祖父の体調・病状が一気に悪くなったのは、9月30日のことでした。
この日の午前中、ぼくは小田原から京都に向かっていました。清水寺で演奏をさせていただく機会をいただいたからです。この移動している間に、家にいる祖父が頭から転倒し、救急車で運ばれたと祖母から連絡が入ったのです。
その後、祖父と電話がつながり、
「水晶、大丈夫だよー。演奏してきてー」
という声を聞き、涙が止まりませんでした。
祖父の名前は清美(きよみ)でぼくの名前は水晶(みずき)なので、「二人で清水だねー」と話していたこともあります。清水寺でのご縁は、本当にあたたかく、優しい方ばかりで、特別なものを感じています。
京都での仕事を終えて家に帰った後、祖父はかなり筋力も落ち、歩けない状態になっていきます。また、記憶障がいも出ていました。仕事も忙しい時期でしたが、なるべく祖父との時間を取り、介護もしていました。祖父の介護を苦に思ったことはありません。
ある日、トイレにつれて行くために祖父を抱きかかえた時、
「水晶うまいな、抱き抱えるのがうまいな」
と言ってもらったのが記憶に残っています。
10月は、学校や企業からありがたく多数のオファーをいただいていて、11月16日には5周年コンサートもあり、トレーニングも必要。でも、家に帰って祖父との時間を過ごしたい気持ちが強かったのです。
日が経つにつれ、祖父の起きている時間が短くなっていきました。
寝ている祖父にそっと近づき、息をしてることを確認してホッとしていたのです。
しかし2023年10月20日に、祖父からの最後の言葉を聞くことになるのでした。
式町水晶
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