top of page
執筆者の写真mizuki shikimachi

【祖父と僕②】血のつながりを超える愛情

更新日:9月20日

1996年10月28日に母がぼくを出産し、その後2ヶ月で離婚したことから、祖父母の家で一緒に暮らすことになりました。


祖父と僕の年齢差は45歳。自衛隊を退職した後、トラックの運転手として働いていた祖父の生活はというと、平日は朝早く家を出て、夜は遅く帰ってくる生活。休みは日曜日1日しかありません。


祖父からすると日曜日は貴重なお休みなのですが、プールに連れて行ってくれたり、お風呂屋さんで背中を流しあったりしてくれたのを覚えています。


ぼくは脳性まひがあって車椅子生活だったこともあり、とても手がかかるのですが、とにかく優しくケガをしないように守ってくれました。あと、将棋や麻雀、ゴルフを教えてくれたのも祖父です。不平・不満、愚痴を言っているのを見たことがありません。


8歳になったある日のことでした。


母と車で移動している時に、ふとした会話の流れから、

「水晶とおじいちゃんは血のつながりがないのよ

と聞き、衝撃を受けました。


「え?そうなの!?本当に!?ウソでしょ?」


それまで血がつながっていると思っていたので、ブワッと涙が溢れました。


でも、よくよく考えてみると、

「血がつながっていないのに、こんなにとてつもない愛情を注いでくれているんだ!」

と感謝の気持ちも湧き、もっと祖父のことが好きになりました。祖父の愛情深く、人を想えるところを心から尊敬しています。


その後、ぼくは小学6年生の時にいじめ・不登校を経験したことから、闘争心が強くなり、ヴァイオリンを健常者を見返す手段として扱うようになります。


それなのに祖父は、

「それだけストイックに努力できるのは水晶の良いところだけど、健常者の人への恨みを持って演奏するのは良くないんじゃないか?」

としっかり忠告してくれていました。


その時のぼくはその言葉を受け入れられず、価値観の違いから対立したこともあります。でも、そんなぼくに向き合い続けてくれました。


「人の心に寄り添い、癒しの音楽を届けたい」

と思い続けてこられたのは、祖父の影響なのかもしれません。


「どんな人間でいたいですか?」

と聞かれたら、

「祖父のような愛あふれる人間です」

と答えます。




式町水晶

閲覧数:44回0件のコメント

Comments


Profile

式町水晶(しきまちみずき)

1996年北海道旭川生まれ。
脳性まひと闘うプロヴァイオリニスト。

 

東日本大震災の津波に耐えた陸前高田奇跡の一本松と被災地に残された瓦礫や家具を再利用して作られた 「津波ヴァイオリン」を所持し演奏することを託される。

障がい者と健常者の垣根を越え、 より多くの人々に夢や希望を贈りたいとの思いで、東日本大震災チャリティーコンサートや、全国各地での災害支援活動、社会貢献活動を中心に、コンサート、 ライブ、 各種講演会、 楽曲制作も精力的に行っている。

式町水晶
bottom of page